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Personal Engagement (3)


こんばんはー。
今日は少し暖かかったような気がします。
このまま春、ということはないのだと思いますが、少しずつ春が近付いているのかと思うと少し嬉しいですね。

しかし春は花粉の季節でもあります。
まだ序の口な感じですが、これからがつらいなあ…。





4月1日。
新年度の始まりであるその日は、それでも実際には学校が始まる日ではないため、街にあふれるフレッシュな顔は新入社員の若者たち、ということになる。まだ着こなれないスーツ、大概は就職活動で着ていたスーツを着込み、これからの社会人生活に期待と不安を抱きながら、それでもまだ幾分学生気分を残したまま、ラッシュの電車に揺られて職場へと運ばれていく。

"ひさや"本社のオフィスにも、新入社員の面々が集まっていた。
本社で一番大きい会議室には黒いスーツを着込んだ新入社員たちが椅子に座ってこそこそと周りと話をしながら待っている。やがて、社員や役員たちも次々と席に着き、採用を担当した人事部の女性社員の司会で入社式が始まった。
新人たちの目の前には会社のお偉いさんたちがずらりと顔を揃えているのだが、司会が式を進行してからも、新人たちの注目はもっぱら正面の演台に一番近い位置に座る若い男に集まっている。

あれは、誰?というのが新人たちの共通の疑問だった。彼らは企業説明会、見学会、試験、内定式と複数回この会社に足を運んでいるのだが、その若い男のことを一度も見かけたことがなかった。そう、見かけたことがなかったと断言できる。これだけインパクトのある人物を一度でも見たら、その存在を忘れるなんて事はありえないから。

その男は少し長い黒髪と黒い瞳を持ち、グレーのスーツを着て座っている。隣の丸々とした中年男性の倍はあるのではないかと思われるほど長い脚を少し窮屈そうにたたみ、うっすらと微笑を湛えたその顔は何かのファッションブランドのポスターか、彫刻を見ているのかと思うほど整っている。和定食とうどんを商品とする飲食店チェーンの会社には場違いとも思える人物だ。

しかし、新入社員たちはほどなくその男の正体を知ることとなった。
「それでは、社長から新入社員の皆様にご挨拶があります」
司会の女性が告げると、おもむろにその男は立ち上がり、演台に立つ。男は笑みを深めると、響きのいい低い声で挨拶を始めた。
「皆様、初めまして。私が社長の敦賀蓮です」

場が ざわり、とどよめく。内定式で挨拶をした社長は、もっともっと年がいっていて、人のよさそうな、それでいてエネルギッシュなおじさんだったはずなのに??こんな若い社長ってありなの???

壇上の男は軽く笑って、頷いた。
「皆さんが驚かれるのも仕方がないと思います。実は私も皆さんと同じ、今日からこの会社に入社した新入社員です」
よどみなく続く新任社長の話を聞きながら、会議室の一番後ろに座っていた社は感心していた。

クオン…あいつ本当に26歳か?なんでこんな落ち着いて挨拶してるんだ…

クオンは東京に着いたときには既に髪を黒く染め、カラーコンタクトを入れてだいぶ日本人らしい外見となっていた。名前もどこから引っ張ってきたのか「敦賀蓮」と名乗り、既に身元を知られてしまった役員以外には、グループの総帥であるクー・ヒズリとの関係は伏せることになっている。
クオンからのその要求を伝えるために出張中のクーに社が連絡を取ったら、クーは『好きにやらせてやれ』と笑いながら了承したのだが、一体どういうつもりなんだろうか。
とにかくクオンはきっぱりと気持ちを切り替え、3月末にされた役員や社員との顔合わせでも堂々と振舞っていた。

ヒズリ会長が何を考えているのか分からないのに、あいつはやる気だな…俺も、できる限りのサポートをしないと…

社も決意を新たにしたが、とりあえずは『クオン』ではなく『蓮』と呼べるようにしないと、とまずそちらの心配をするのだった。


入社式が終わると、会議室がざっと片付けられ、その場で懇親会となった。
新入社員たちと社員代表、役員たちがあちらこちらで小グループを作り、軽食を取りながら和やかに会話をしている。蓮もビールの入ったプラスチックコップを片手にグループを順に回っていた。新入社員どころか各部の管理職ともまだあまり面識がないため、早いうちに様々な事をつかむにはこういう機会を逃す手はない。

今年の新人は全部で15人、か…

蓮は1人ずつに声をかけながら新人たちの雰囲気を見ていた。厳しい就職戦線を勝ち抜いて上り調子のこの会社に入社してきた面々は、確かに皆はきはきとしてやる気がありそうだ。
蓮はふと、新入社員の女性グループに目をやった。15人中女性は6人。内定式などで既に顔見知りなのだろうか、6人は2つのグループに分かれて先輩社員も交えて楽しそうに会話をしている。声をかけるべく近づこうとして、蓮は1人の女性新入社員の顔をまじまじと見つめてしまった。

その新入社員は栗色の短めの髪の女性だった。周りの女性達がかなりの美人揃いのため、化粧っ気のあまりないその女性はぱっと見地味な印象を与えるが、ぴんと伸びた背中と大きな瞳が特徴的だ。いや、それだけならば蓮はその女性の顔を見つめたりはしなかった。しかし、まさか。少し驚きながら蓮は足を進めた。もう少し近づくと、女性の話し声がしっかりと聞こえてくる。蓮は確信した。

間違いない。この女性の事を自分は知っている。

蓮は更に近づいて笑顔でグループに話しかけながら、女性が胸に着けているプレートを確認した。そこには『最上』と書かれている。そう、京都で通っていたカフェのアルバイト店員。彼女も胸に『最上』とつけていた。あの店員は長い黒髪をいつも一つに結んでいたが、違いは髪型だけだから見間違う事はない。

蓮は昔から父親の経営する飲食店を訪れたり、ライバル店を視察に行くのに付き合ったりしていて自然と店員のレベルが測れる様になっていた。その蓮が感心するほど、礼儀正しく、元気で、手際よく、いつも心のこもった接客をしていて、コーヒーを買うだけでもいい気分になれる店員。それが今目の前にいる『最上』さんだった。
店に通ううちにその接客態度や笑顔に癒されるようになり、彼女がレジにいれば無意識にそちらに並ぶようになった。京都を離れる直前に店を訪れて、会えなかったことに少しがっかりまでした。

その彼女が、自分が社長を務める会社の社員になるとは。
蓮はグループ全体と会話をしながらも、偶然というものの面白さに感心していた。京都にいた頃のクオンのことを相手は間違いなく覚えているはずだが、今の自分は見た目が違いすぎて同一人物だと分かっている様子はない。

自分も相手も見た目が変わっての再会とは、なかなか面白いな…

蓮は目の前の『最上』さんに素性を明かす気は全くなかったが、この会社で責務を果たすことについて、少々違った楽しみが加わったような気がしていた。


入社式の翌日から、早速新人社員達の研修がスタートした。社員たちは名札をつけてぞろぞろと集団で移動する若者たちを社内で目にすると、「ああ、新しい年度になったな」と実感する。新人たちはまずは社会人としての基本的なマナーを学び、そして徐々に実践的な研修に参加するようになっていく。

同じ新人でも、社長となるとそう悠長には行かない。
蓮は研修などという生ぬるい期間は無しでいきなり実務に飛び込む状態となっていた。社長どころか管理職の経験もなく、会社員の経験すら数年だ。
蓮のサポート役としては、親会社から出向してきた社と、先代社長の頃から秘書を務めるベテラン女性社員の飯塚が全面的に当たってくれている。幸いな事に実務レベルはしっかりと担当者に委任され、社長としての仕事は会社としての方針を決める事や報告を受けて承認することがほとんどだった上に、蓮があっという間に必要な業務を把握したため、会社の経営が滞る事はなかった。


「さすが、ヒズリ会長のご子息ですな」
4月下旬、ある日の役員会議のあと、渡辺福社長が蓮に話しかけてきた。
「いや…色々とご迷惑をおかけしている自覚はありますし…まだ何もできていませんよ」
蓮は苦笑しながら返答した。謙遜ではなく実感だった。1ヶ月弱、フル回転で当たってきたが、なかなか緊張感も抜けず、毎日があっという間に過ぎていっている。役員のみならず、社や飯塚に助けられている部分もかなり大きいと思う。
「いやいや、立派なもんですよ」
近衛専務がにこにこと会話に加わってくる。

蓮は目の前に並んだ二人の男性を見て、なかなか対称的だよな、この2人、という感想を抱いた。
2人は年はほとんど同じだが、渡辺がひょろりと背が高く、骨ばっていて顔つきも神経質そうなのに対して、近衛は体型も顔も丸く、眼鏡のフレームもまん丸で温厚な印象だ。ある意味これでバランスが取れてるのかもしれないが、そう考えるとまた自分は随分調和を乱す異物だな、と蓮は思う。

「うちの会社は社員こそ1000人に満たないですけどね。展開している店の従業員を入れるとかなり膨らみますし、把握するだけでも大変なんですよ」
近衛がぼやくように続けた。
「新規出店は今年は少し抑え目になるでしょうね。既存店舗のてこ入れもそろそろ必要でしょうし…」

「あれこれアイデアは出ていると聞きましたが」
蓮は自分の元に上げられてきた様々な情報を思い出しながら尋ねる。
「近々のものはあれですね、社内メニューコンペ。今年の新入社員は研修の一環として参加してるんですけど、1グループが決勝に勝ち進んでますね」
笑顔を浮かべて近衛が答えると、渡辺がそれに付け加えた。
「決勝は社長も審査委員長として参加をお願いしますよ。優勝メニューは実際に店舗に出ますからね、責任重大です」
「また、余計なプレッシャーをかけないでくださいよ」
蓮が眉間に皺を寄せてみせると近衛は楽しそうに笑い、渡辺はまあまあと蓮をなだめた。


その日の夜、仕事を終えて社長室を出た蓮はふと考えた。

1か月近くをこの会社で過ごして、ようやく現状の把握ができるようになってきた。だがしかし、まだまだ浅い。
社員達は得体のしれない新しい社長を遠巻きに見ているようだし、役員達は蓮の素性を知っているだけに若干警戒されている。もう少し深く入り込まないと、父親が自分をこの会社に送り込んだ真意は見えてこないだろう。

とは言っても、このままでは埒が明かない。
とりあえず何とか社長として会社の運営をしなければ、とがむしゃらになってしまったところが、さらに他役員達の警戒心を高める結果になっている気もする。何かこう、壁を崩すきっかけがあれば。

ぼんやりと色々な事を考えながら廊下を歩いていると、かすかな出汁の匂いを蓮は感じた。この会社には社員食堂はなく、時刻もとっくに終業時間を過ぎているため、考えられる匂いの元は一つだ。随分と仕事熱心な社員がいるな、と思いながら、蓮は匂いの元と思われる近くの部屋へと足を向けた。

蓮の予想通り、匂いは調理室から漂っているようだ。誰かがうっかりドアにストッパーを挟み込んでしまったらしく、わずかに開いた扉の隙間から廊下へと匂いが流れ出していた。
この会社の調理室は標準的な店舗の厨房を再現した形になっている。実際にメニューを開発した際に、店舗でのオペレーションで提供か可能かどうか検証するために存在する部屋だ。ガスも通っているし、必要な調理器具も全て揃っているため、メニュー開発や試食もここで行われると蓮は聞いていた。

扉を静かに引いて中を覗くと、部屋の中では1人の女性がぶつぶつ呟きながら机に向かって何かしているところのようだった。
蓮はここで誰が何をしているのか少し興味が湧いて、開けてあるドアをコンコンと叩くと、女性に声をかけた。

「随分と仕事熱心ですね…メニューの開発ですか?」

がばっと頭を上げて振り向いたのは…新入社員の『最上』さんだった。


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